自分で動けるとは何か ~ブログからなぜそれを感じるのか~
はじめに
このブログを読んでいただいている方から、このブログからあなたが自分で動ける方であることが分かる、と言われたことがあります。そのコメントをくれたのが一人だけならお世辞として受け止めますが、全く別の方からも同じコメントをいただき、あながちお世辞ではないのかもしれない、そう思い始めています。
そこで、このブログからなぜそのような印象を持っていただけるのかを自己分析してみたところ、それはこのブログの記事が書かれるプロセスにあるのではないかという考えに至りました。「自分で動ける」ということをブログという観点から分析した過程とその結果をまとめます。
分析のため、私の書いた記事を大きく分類分けし、それぞれにどのようなテーマ及びプロセスで書いているかをまとめます。そして、最後に全体を振り返ります。
「自分で動ける」をここでは「自発性・自主性」としました。この定義は以下の引用を参考としています。
自発性・自主性
他者の指示や意見に従ったり、あるいは他者の顔色や周りの様子をうかがったりして行動するのでなく、自らのうちにわき上がる思いや判断に基づいて行動することを、自発的と呼びます。また、他者に依存することなく、他者に責任転嫁することもなく、自らの考えと責任において行動することを、自主的と呼びます。
生徒指導提要(平成22年3月)より一部抜粋
全般
以前にこんな記事を書いていました。
このブログで目指すこと - ぱと隊長日誌
この時から「誰かの力になりたい」という思いは変わらないでいます。
基本的には世の中に無い記事を書いています。
自分より文章や説明が上手い方は多くいます。そんな方が同じテーマで素晴らしい記事を書いていたら、私は書きません。その時間をもっと他のことに費やしたいからです。
ただ例外として、同じテーマかつ同じ内容の記事でも、視点を変えて自分の考えを表現できることがあれば書くことにしています。
ブログは私の分身(正確にはその一部若しくは一面)です。だから、誰かを非難したり、傷つけるような記事は書きません。誰かに面と向かって言えないことは書かないということです。
技術系
業務では知らなくて済むとしても、気になったことを深掘りしています。
業務ではマニュアルや本の通りにすれば済むことが往々にしてあります。なぜ?と追求しなくともこなせます。そして、こなせてしまうのだから業務内でそれを深掘りする時間を確保することが困難です。
なので、私は深掘りの時間をプライベートで確保することにしています。そして、そうやって取り組んだ内容を記事としてアウトプットしています。
また、技術に関する調べ物でありがちなのは、散らばった様々な情報を集め、再構築する必要があることです。こんな時は再構築した内容を記事としています。もちろん、インプットとした情報源も明記し、後で再検証可能なようにしています。
マネジメント・リーダーシップ系
マネジメントやリーダーシップに関しては業務に直結していることが多く、とても書き辛いです。守秘義務に触れないようにエピソードを書くことが困難だからです。
そこで、本・映像・講演などから得た情報を中心に、特に重要で繰り返し振り返りたいこと、心の琴線に触れたことをまとめています。また、そこに自分が何を感じ、これからどういう取り組みをするのかも書きます。
まとめた記事は折に触れて読み返し、その頃の自分と今の自分がどう変わったのか、さらにこれから何をすべきかを考え直す機会としています。
振り返り系
人生は仕事ばかりではありません。仕事から離れた日々の生活にも気が付くことは多くあります。そんな気付きをまとめています。
特に周囲の方の言葉に耳を傾けています。周囲の方は自分以上に自分のことを知っています。そんな方々の何気ない一言の中にヒントが隠されています。この記事自体がそうやって生まれました。
頂いた言葉の中には自分の心に秘めておかねばならないものもあります。それはノートに記し、時折振り返るようにしています。
分析とまとめ
私にとってブログはアウトプットを形にするための手段です。目的ではありません。
どの分類でもブログのインプットは日々の気付きであり、探究を経て、記事というアウトプットになっていました。
気付きはよく注意していないと気が付けないほど些細なことが多いです。湧き上がる興味、ふと感じる違和感、なぜか心が揺さぶられる言葉、まずはそこに気が付くことから始まります。これが自発性の始まりでもあります。
そして、探究とはその気付きの本質が何であるかを追い求めることです。その本質を知りたいという強い思いから寝食忘れて没頭すること。周囲の一時の評価ではなく、自分の思いを信じて貫き通すこと。これが自主性の表れです。
「自分で動ける」とは気付きからその探究を行うというプロセスにあり、それがアウトプットである記事から感じられているのではないかと思うのです。
今後に向けて
「自発性・自主性」の定義を「生徒指導提要(平成22年3月)」より引用しましたが、これには続きがあります。長いのですが、そのまま引用します。
ア 自発性・自主性
自らの人格の完成を自ら希求する児童生徒に必要となるものは、他者から強制されなければ行わない、他者から指示されないと行わない、他者と一緒でなければ行わない、などの受動的な姿勢や態度ではなく、能動的に取り組んでいく姿勢や態度と言えます。一般に、自発性や自主性といった言葉で語られる資質がそれに当たります。
他者の指示や意見に従ったり、あるいは他者の顔色や周りの様子をうかがったりして行動するのでなく、自らのうちにわき上がる思いや判断に基づいて行動することを、自発的と呼びます。また、他者に依存することなく、他者に責任転嫁することもなく、自らの考えと責任において行動することを、自主的と呼びます。自発的な行動や自主的な行動を支えていくような資質をはぐくんでいくことが求められます。
イ 自律性
自発性や自主性に基づいて行動しているだけで好ましい結果が得られるとは限りません。その時々の自分の欲求や衝動に従った行為や行動を繰り返すだけでは、自身の本意とする結果に行き着けるかどうかは分かりません。とりわけ、目先の欲求や衝動に振り回されてしまっていては、自分の欲求や衝動に自分自身が支配されている状態になってしまいます。これが、自発性や自主性とはほど遠い状態であることは言うまでもありません。
そこで必要になるのが、自分の欲求や衝動をそのまま表出したり行動に移したりするのではなく、必要に応じて抑えたり、計画的に行動することを促したりする資質です。一般に、自律性といった言葉で語られる資質がそれに当たります。自分の欲求や衝動を含めて自らが律することなしに、人格の完成は期待できません。自律的な行動ができる資質をはぐくんでいくことが求められるのです。
ウ 主体性
学校においても実際の社会においても、自発的・自主的・自律的に行動できることばかりではありません。あらかじめ行動する内容が決められていたり、自分が中心となって行動できるとは限らなかったり、既存の計画に従って行動することが求められたりする場合が少なくないのです。
そうした場合、行動することを拒否するか、反対に自分の意志や欲求を抑えて行動するか、という二者択一に陥りがちです。しかし、もう一つ、主体性を持って行動する、という選択肢もあります。与えられたものであっても、自分なりの意味付けを行ったり、自分なりの工夫を加えたりすることで、単なる客体として受動的に行動するのでなく、主体として能動的に行動する余地がある場合が多いからです。限られた条件の中であっても、主体的に取り組もうとする資質をはぐくんでいくことも求められています。
生徒指導提要(平成22年3月)
「自分で動ける」とは自分勝手に思うがままにふるまうのではなく、自発性・自主性・自律性・主体性の全てを成立させ、リーダーシップを発揮するということです。今一度自分を振り返り、今後の行動を考えていきます。